こんばんは。

目がギンギラギンにさりげなくて、困っています。

先ほどツィッターでね、障害のある弟がいるお姉さんの気持ちを見てね。
また考えてしまいました。

私に障害がなかったら…子どもを望んでいたかもしれないなぁ。とね。
妊娠、出産、育児を経験してみたかったなぁ。ってね。

現実は自分のことで精一杯。
それに発達障害は遺伝病ではないにしろ、親の特性が受け継がれるという話だから、私のこの生きづらさを受け継ぐ子どもは、とてもとてもとても苦労するのだろうなぁ。と考えると、残酷すぎて。
残念だけれどね、望めないです。
その生きづらさを抱えた子どもの最期まで面倒は見れないですものね。
順番からしたら親の私が先に死ぬわけで。
まだまだ障害に偏見が強い社会に、生きづらさを抱えた子どもを残してね、安らかに死ねないじゃないですか。

私の親は責任感があまりなくて。
ゴミだらけの家は、母自身が死んだら終わりになると思ってるようなのですよね。
そうなのですけどね。
ゴミだらけの家を残される子の気持ちも考えてもらいたいなぁ。と切に思います。

話が逸れました。
若い頃(まだ発達障害と分かる前)は子育てをしたいなぁ。と漠然と思っていた時期もあったのです。
でも今は、私の生きづらさを受け継いだ子どもはあまりにも、なんというか残酷だと思ってしまうのです。

私はね、常日頃から障害という十字架を背負って生きている感覚で。
そんな思いを自分の子どもにさせたくないです。

あくまで今の私の考え方です。

私は親の自己満足のために産まれてきました。
父は育児放棄ぎみで、その代わり母方の祖母と叔母も育児に協力してくれていたらしいけれど。
その母方の家系は、今の私から見たら発達障害家系だし、私が発達ゆっくりさんだったからなのか過保護・過干渉でした。
モラルの問題でもあるのだけれど、母方の叔母は会うたびにウンチの話を私にしてくる印象で。
家の中でなら聴いてあげられるけれど、飲食店でも構わずに叔母のウンチの話を聴かされます。
正直、嫌だし、恥ずかしいです。
それを言えたら良いのだけれど、還暦をすぎた人に「家の外や飲食店で、ウンチの話は止めようね」って言えないのです。
叔母はウンチの話が耳に入る人のことを考えられないのでしょうね。
悲しいですよ。
その他にも叔母は高圧的な態度だったり、話をしているときのジェスチャーが大きすぎたり(車内ではジェスチャーをする叔母の手が私に当たることも多々あります)、場に合わせて声のボリュームを加減することが苦手のようです。
母は高圧的な態度はないものの、会話に主語がないので本当に疲れます。
あと母は髪の毛がベタベタになっても入浴しません。
パッと見ただけでもとても不衛生に見えます。
そして母は自分で物事を決めることが苦手です。
この母と叔母と買い物に言くと、大声で色々と喋りまくり、私は恥ずかしいのです。
でも唯一の母や叔母なので、大切にしたい気持ちもあるのです。
一緒に買い物に行きたいとも思うのです。
矛盾しているのだけれど、そうなのです。



これは明け方頃に少しだけ眠れる流れかもしれないです。
そしたら明け方にシャワーを浴びようと思っていたけれど、今からシャワーを浴びるのも有りだなぁ。とも思えてきました。
ドライヤーは音が近所迷惑になるので使わないようにしようと思います。


それでは、また。