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君は最高だ、ただの人間さん。
1.
磨きぬかれたボンネットに、光が雨粒となって滴り落ちる。
濡れたように輝くその目の群れを一瞥し、小指の爪でサイドミラーを弾く。
「相変わらず、どいつもこいつも狐の剥製みたいな面をしていやがるね」などと、君は心の中で独り言つ。
狐たちを売りさばく仕事に就いて、もうしばらく経つ。
いつの間にやら、そういうことになっていた。すくなくとも、君の今現在の正規の身分を問うならば。
「金持ちに鉄くずを売りつけてンのよ。お洒落で優雅な、バカ高い鉄くずをね」
「?」
君が安普請の寝台でそううそぶけば、商売女は首をかしげる。
君は鼻で笑って、こう言い直す。
「それっつうのはつまりさァ、『狐に狐を売ってる』ってワケ」
そのあとで君が得意げに、「おかしいだろ?」と付け足せば、必ず女は笑う。
相手が意味を理解しても、あるいはしなくても君にとっては同じことだ。
「これは冗句だ」と認識させてやる。すると、女は笑う。ただの反射だ。
だが、そんなことで君は機嫌を損ねたりはしない。
君は普段、機嫌を損ねることなど殆どない。むしろ、『殆ど何も感じていない』というのが正しい。
何かに感情移入することを、君は人生の早期において放棄していた。
『何物にも肩入れしない』君のこの特異な性質は、世の中を渡っていくのに十分に役立ったし、今の仕事にもたいそう向いている。
スノッブで情熱的な狐たちを相手に、君自身が同じくらい情熱がありそうに見せかけることなぞ、君にとっては朝飯前だ。
『きわめて飄々としている』というのが、周囲の人間からの君への評価だ。
これだけは、君の身分がどうあっても、子供のころから変わらない。
君にはごく若いうちから、老成した雰囲気というものが備わっていた。
それを初めて指摘した伯父の顔――「この子はこれから、仙人みたいに人生を渡っていくよ。おれにはわかる」と言った――を、君はよく思い出せない。
高級車のディーラーとしての君の営業成績は素晴らしく、だが面倒な引き抜きなんぞを受けないスレスレのところでひらりと身をかわしている。
君は今日も順調に契約をとり交わした。
自慢話に華を咲かす旦那の相手をしながら、奥方にエスプレッソを飲ませ、高級ブランドのチョコレートをそつなく土産にもたせる。
3000万円余りする君の商品を即決した狐に敬意を表し、君を含めた社員全員は総出で一列に並び、頭を垂れて見送った。
すでにとっぷりと日が暮れている。
ショールームだけが煌々と輝き、闇夜にぽっかりと、真白い帆船のように浮かび上がった。
君が帰り支度をしようとすると、ヒールが床の大理石を打ち付ける音が響いた。
いつも天才的なタイミングで、客に飲み物をサーヴィスする受付嬢だった。彼女はここでは、単なる『お茶汲み係』ではない。こんなショールームでは、一流のサーヴィスをこなすのも立派な才覚の一つだ、と君は認識している。
バターナイフの刀身を思わせるような、優美なキレのあるからだを制服に包んだ彼女は、君にそっと耳打ちするように、
「女性がお待ちですよ」と告げる。
「だれ?」と君がささやきかえすと、
「それが、お名前を仰らないそうなんです。会えばわかるからって・・・・・・」
と言って、受付嬢はやや怪訝そうに首をかしげる。
「うん? えーと、どんな人だった?」
君が尋ねると、受付嬢は目を見開いて、
「物凄く、綺麗な方です。でも、顔はわかりません」
「え?」
「サングラスをかけてむこうを向いていらっしゃるから。それでも、お顔立ちが整っているのがわかるんです」
と、努めて興奮を押さえようとしているとわかる、息の詰まった声音で応えた。
「本当に? そんじゃあ、早く行かなくちゃね。ありがと」
君は茶目っ気をにじませた、感じの良い笑顔で言う。
ごくわずかに匂い立つよう計算してつけられた、クロエのオード・トワレの清香を残して、受付嬢は去って行った。
その去り際に投げられたまなざしに、強い好奇とわずかな憤慨、それに君への軽い失望が入り混じったジェラシー――が込められているのを感じて、君はほほ笑ましく思う。
君は足早にエントランスホールへと向かいながら、すばやくこれからの展開についての予測を立てる。
これは明らかにイレギュラーな事態だった。
君は職場に女を呼んだことなぞないし、いつだって適切に女たちへの対処をとっている。よって、勝手に訪ねてくるような、後腐れある関係の相手などいない。
女は「会えばわかるから」と言ったらしいが、「わかっている」のは相手だけで、君はその女を知らない可能性が高い。
――会うのか? 危険では?
私がそう警告すると、君は少しだけほほ笑む。
「でも、とびきりいい女らしいよ。結構じゃないか」
それは不敵というのとは違って、むしろ開き直ったような、君の独特のほほ笑み方だ。
こういう表情をすると、君はまったく感情が読めなくなる。
私でさえ、内心を窺い知るのに骨を折るほどだ。普通の人間には、言うまでもなく困難だ。
君はエントランスへ辿りつく。
すでに人気はなく、静まり返った受付のカウンターで、その女は座って君を待っていた。
ごく短い、ミルクベージュのショートパンツから伸びた足をゆるく組んで、むこうを向いている。
肉が削がれてほっそりとした太腿がまばゆく白く、どこまでもすらりとしなやかで、足首が細くくびれて締まっていた。膝小僧は小さく、くるぶしの形もすばらしい。
それは『完璧な形』といわざるをえない、美しい脚だった。
なにかスポーツをやっている者の脚だ、と君は思った。舞踏――バレエだろうか。
君は思わず見蕩れて立ち尽くしたが、それは別段、性的興奮を催したからではなかった。
君は、どちらかといえば肉付きのいい女のほうが好みだ。
すこしばかり余分な脂肪が載って、ようするに隙のある――生のにおいを感じさせる女を、君は好む。
その女の脚は確かに完璧ではあったが、細すぎる白い2本の脚は、どこか現実離れして、マネキンめいた印象を君に与えた。
君が声を掛けるよりも早く、女は気配を察知したらしく、ゆっくりとした仕草で振り向いた。
女は黒いサングラスをしたまま、君を見てほほ笑んだ。
「こんばんは、サカイさん。貴方を待っていました」
女は音声ガイドのような、正確で美しい、ブレの無い発音で喋った。
君は多少、面食らった。
皮膚の白さや骨格から判断するに、どうみても外国人にしか見えないその女が、ひどく流暢な日本語を発したからだ。だがその些細な動揺は、微塵も君の表情にはあらわれない。
「――それは、それは。おれたち、どこのバーで会ったんだっけ? 君みたいなコを忘れるとは、このオジサンもついにヤキが回ったってことか、ね?」
君はいつも通りの鷹揚な口調で、やに下がった笑みを浮かべながらその女に近づいたけれど、内心、最大限の厳戒体制を敷いたことは言うまでもない。
君の観察眼は、実に正確に機能する。そのために、君はこれまでに数々の危機を脱したのだ。
しかし君は普段、そんな態度はおくびにも出さない。
君が実際、とても慎重な男だということを、だれもが知らない。――唯一人、この私を除いては。
「『君みたいなコ』というのは、どういう意味です? サカイさん」
女は、冴えた音を鳴らす鉄琴のような声で訊いた。
『サカイさん』と、また君の名を呼んでいる――この女はいったい誰だ?
君の脳は警鐘を鳴らし続けながら、体はまた半歩、女に近づく。
「『どういう意味』って? もちろん、君みたいな美人ちゃん、ってことさァ」
君はへらへらと笑いながら、ついに女の正面に立つ。
女は音もなく椅子から立ち上がったが、君はそれを見て、さらに驚かされた。
ひどく背が高かったからだ。
非常な脚の長さからどう見ても長身であることは知れたが、予想以上だ。
履いているハイヒールの高さが加味されるものの、それを差し引いてもおそらく180cm近くは上背があるだろう。日本の成人男性の平均身長に2cmばかり足りない君よりも、10cmは高い。
「背が高くって素敵だね。でも、キスするときには屈んでくれる?」
君の軽口を聞いて、女はふふふ、と微笑する。品のよい笑い方だった。笑い方には品性が現れる。
これはおそらく、育ちのいい女だ。
「ねえ、美人ちゃんサ、こんなところで立ち話もなんだから、ソコのバーで一杯、飲まない? もちろん、そうしてくれるだろ?おじさん、なんでも奢っちゃうよ。ゆっくり君のことを思い出したいし、ね」
そう君が促すと、女は軽く首をかしげてこう言った。
「思い出される必要はありません。今ここで、初めてお会いしたのですよ」
女はますます美しく、悪戯っぽく微笑む。
そうだ。
一度でも会っていたら、忘れるはずがない。
こんな人間を、君はいままで見たことがなかった。
――危険な事態、だ。この女は、あきらかに君の内部になんらかの侵入を果たそうと試みている。
私はすばやい仕草で君にサインを送るが、君は「まあ待て」とひらひら手を振って、私をいなす。
「時間、あるの?」
「いくらでも」
「じゃあ、やっぱり付き合ってもらわなきゃ。どうしておれのことなんて知ってて訪ねてきてくれたのか、聞かせてくれなきゃね」
「ええ。今晩は、貴方とお話をするためだけに、ここへ来ましたので」
女はそう言って、おもむろにサングラスを外した。
君は息をのんだ。
君の呼吸と時の流れが一瞬、滞留した。
まるで化粧気がない顔なのに、薄い唇だけがやけに紅く、透き徹るような水色の目と対照的な色彩を放って、蒼白な皮膚に映えている。
おそろしく整った顔立ちだ。奇妙なほどだった。
「――すばらしい美人だ」
君は、今度こそはあっけにとられた感じを隠し切れないまま、そう呟いた。
「どうもありがとうございます。そんなに驚かれると、照れますね」
と、女は軽い口調で爽やかに、ちっとも照れてなどいない風な、平然とした表情で言った。
君はそれを見て、ハッとして気を取り直した。
飲まれてはならないよ、と私は警告する。
動揺するな。背中を見せるな。常に的確に状況を判断して処置すること。
私がそう並べ立てると、君は鬱陶しそうにうなずく。
「わかっているよ。お前こそ、いま動揺しただろう?」
君が横目遣いにせせら笑うので、私は多少面目をなくし、沈黙する。
「おれがキアヌ・リーブスなら――」
君は思考する。
「これからこの『謎の女』によって、『マトリックス』の世界へ導かれるね」
いいのか? と私は尋ねる。
――もし戻ってこられなかったら、君はどうする?
「さあ、知らないよ・・・・・・」
女に目くばせをして、眠る狐の剥製たちを背にする。
君は夜に身を投げ出した。
To be continued…