夏休み課題で出た「新作十編の詩を書く」という終わりのみえない作業に対して、泣き言をつぶやいたら、
「仕方ないよ、言葉を出産しているんだからしんどくて正解」
みたいなことを返されて納得しました。あと三人も産むのはちとつらいけど。
その言葉と同時に思い出したのが、吉野弘の書いた『I was born』という作品。ネットで検索すればwikiでも何でも出てくる世界なので本文は割愛。教科書にも載っているようなので、もしかしたら読んだことある方もいるのかな。
母のほっそりとした喉元に詰まる自分。蜉蝣の傾向摂取に向いていない口。卵。そして、うまれるーー
能動的に、いきることをしたい。
そんな夏のおわりです。
言葉というものは弓矢と同じで手を離したら自分の元からなくなってしまう。
自分の感情や考えごとを最近文字に起こせなくなったのは私の気持ちが私だけのものじゃないと知ってしまったからかもしれない。少し前までは、ぼんやりとした行き場のないものを形に置き換えることで、それが確かに存在するということを証明していた。しかし、今はそれが怖い。これが私以外の誰かも確かめられるような形になって、普遍化してしまったら?本当は意図していないのに何か違う共感を生み出してしまったら?
今の私には答えなんてないから、きちんとこの世界の色や感覚をもっと見たり聞いたり味わって歩いて行こうと思った。
自分が思っている以上にふと言った言葉が相手の中で深く残っているらしく、「あの時ああやって言われたのがターニングポイントだったんだよね」と言われる。ごめん、本人全く覚えてないわ。寧ろ、無神経なことしか言ってないわ。
そんな感じで、私は元気です。