いきてまーすげんきでーす。拍手ありがとでーす。
パン焼いたりPCのネットワーク接続とか直してました。いつの間にか設定が『パス無効』とかなっててぞっとしました。私が何をした。
休み明け連続で夜友人に会ったりしてやっぱちょっと疲れたみたいでぐーたらしてました。第一志望のとこに行った子も同期も皆して「もう辞めたい(素)」って言っててちょっとウケました。ほれみろー。私なんか入社式の段階で「もう無理」ってなってたからな!辞めたい、じゃなくて、もう辞める、だもんね。勝ち誇る話でもないですが。
昨日はレゲー祭り(*我が家限定開催)でした。参加者二名。身内以外と盛り上がれないこの兄弟。10年前に弟がずっとやってたゲームなので、横で見てただけでも「あれそここれ使うんじゃね?」となんとなくアドバイス出来るもんですね。面白かった。面白かったし、なんか色々設定とか語り合うの楽しかった。子供がやってて「面白かった!」って思えるものは大人がやってても面白いんでしょうね。そう考えると「大人向けアニメ」って変な気がする。変にくくり入れなくても、面白かったら子供向けでも大人は食いつくよ。
最近は、大人になるってことは単に「TPOをわきまえる」ことのように思えます。外面では我慢してても内心「ふざくんね!」と思うこといっぱいあって、それが出来るかできないかが大人と子供の違いなんじゃないのかなーと。稀に居る「天才」はそゆことせんでも人類の役に立っているから許されてる。つまり天才じゃないかぎりは常識は守らなきゃ生きていけない。
でもそんなこと言ったって心の中で妄想することまで規制は出来ないわけで。だから面白い!って思ったら子供向けも大人向けも関係ないんだろうなあと思いました。私自身結局小学生や中学生の頃から中身変わった気しませんもの。昔より思ったことをこの世に存在する言葉で表せるようになっただけで、考えてることは一緒だし、出来るようになったことで失ったこともいっぱいあるんだろうなあと思います。もう思い出せないくらいにね。
『10年前のこと』を考えると16歳のときのことを思い出します。なんでかってと小学1年生(6歳)の頃、自分が高校生になったら、と言うことを通学中に何度も空想していたから。そして16歳になったとき、その頃のことを自分は覚えているんだろうか、とぼんやり考えていたから。子供の頃の方がなんとなく生きるとか死ぬとか、現れるとか消えるとか、そういうことが身近に思えたから、ひどく遠い未来の世界に自分が居るのかどうかすら、あやふやではありました。
それで阪神大震災があって、ぼんやりとした生とか死とかがTVや新聞の一面に映像として、数字として毎日現れる。その頃は東京に住んでたけどそのちょっと前まで関西に住んでたことがあったので、色々思うところもありました。多分それも子供しか持てない何かを失い、同時に生きることに目を向けるようになった一つのきっかけだったのでしょう。結局20代も半ばに近づいてきましたがあの頃考えていた死生観は今も変わりません。そんなもんです、大人なんて。いい歳した大人が社会では真っ当に働いてても家に帰ってPC立ち上げたら「○○萌え〜」と叫ぶ。そんなもんです。そんなもんですが、たまに「この人普通に生活しててもこんなことばっか言ってるのかなあ」と心配になる人も居ます。それはそれで羨ましい人生だ。自分には絶対出来ない。
仕事では電話応対とヘルプ!以外人間と口をきかないのですが、その分私生活で色んな話をしました。20歳の頃は「結婚なんてしない!」と公言していた私ですが最近はもう仕事したくないので結婚して家庭に入りたいです(素)まあ大学4年の段階で教授に「見合い相手見繕って!」といっつも言ってたけどな!しかし恐ろしいことに大学の友人もそんなことを言っていたよ!!あんだけ「働きマンになる!」って言ってたのに!
まあ男の人の手取りも減ってるわけですから「結婚したところで皆仕事辞めてないよ」とピアノの先生に窘められたりもしましたが。わ、わかってますよ!悲しいことに私は自分の想像する未来像とかすりもしない人生を送る運命のようなので、結婚しても出産しても育児しながら労働に従事するのだろうなあと言う気はしてます。
でも、6歳の頃想像してたような彼氏は居なかったけど16歳の頃は楽しかったよ。家族や学校と言う絶対的な庇護の下、少しだけ広がった世界と、少しだけ増えた自由は、未来に対して無邪気な希望しか齎してくれなかった。
金曜に新宿で飲み会の前、日本で五つの本屋さんしか置いてない雑誌(関東では2件)(マニアックすぎ)(フロア男しか居なかったゼ!)を買いに予備校時代の駅に行ったんですが、初めての挫折であれだけの希望が一気に色褪せていくのを味わった割に、やっぱりあれはあれで幼かったなあと思いました。若かった。でも結局あれから何も変わってないわけです。相変わらず英語は話せないし、微分積分は分からない。パソコンで色も塗れないし、漫画もかけない。パンは焦がすし、メイクも下手。何か変わるかなって思ってたけど、何も変わらない。
多分人間ひとりひとりに「持てる量」が決まってて、それ以上どんなに手を広げたところで今持ってる何かを捨てない限りは手に入らないんじゃないでしょうね。だって出来る人って、何だって出来るじゃないですか。仕事も家庭もやって、趣味だってやれる。出来ないからって卑屈になるの、正直しんどいし、悲しいからもう辞めます。えーん。もうここ日記サイトでいいよー。私スペック足りないから趣味全部こなせないよー。
人付き合いも、私の人生から退場していった人の代わりに、新たな人が登場するだけだって思えば、あんまりそんなに悲しくないのかな。誰かを、手に入らなかった誰かの代わりにするのは10代で辞めましたが、何もかもなげうってでも一番好きな誰かが居ないのはそれはそれで少しむなしい。
10年経って、10年前こんなこと考えてたんだっけってことを思い出して、恥ずかしくなればいいよって思うだけの日記です。夏の終わりの日曜の夕方。きっと思い出す暇もないぐらい、忙しくて充実した幸せな人生であればいいなって思いつつ。