しとしとと、雨が降り注ぐ。
濡れた地面の匂い。
それに混ざる、微かな甘い梔子の花の香り。
―― 嗚呼、もうそんな時期でしたか。
そう感じながら、ゆっくりと歩みを進める。
使い慣れた医療鞄を右手に、左手で雨傘を持ち、いつもより少し人通りの少ない通りを歩く。
今日は雨は止みそうにない。
そう思いながら、カルセはそっと溜息を吐き出した。
向かう先は街に住む少年の元。
幼い頃から体が弱い彼のための、往診だった。
彼……カルセは他の魔術医たちと違って、診療所を持たない。
一応住まいはあるものの、殆どそこには帰らないで、かつて所属していた騎士団の棟(ありがたいことにまだ滞在するための部屋をとってくれてある)や往診先の近くにある宿に泊まることが多かった。
そうした暮らしを選んだのは彼自身であり、その決断に後悔もしていない。
……けれど。
「これも逃げ、なのでしょうかね」
そう呟いて、苦笑を漏らす。
道行く人が居ないこの状況では、そんな独り言を不思議に思う人間も居ない。
自分の考えを昇華するには丁度良い。
そう思いながら、カルセは歩みを進めた。
***
「先生、いつもと少し違うね」
いつものように診察を済ませ、薬を渡す段になって、患者である少年にそう声をかけられた。
カルセは藍の瞳を大きく見開いて、それから首を傾げる。
「おや、そうですか?」
「うん」
こくり、と迷わず頷く少年。
カルセの腰辺りまでしか背のない少年は、くりくりとした大きな瞳でじっとカルセを見つめている。
少し困ったように笑った後、カルセはその小さな頭を撫でた。
「ふふ、細かいところに気が付けるのは素敵なことですよ」
「んぅ、……何かあったの?」
そう問われて、カルセは目を細める。
そしてゆるゆると首を振って見せた。
「いいえ。少し、雨の日が続くので憂鬱に思っただけですよ」
ほら、今日も雨でしょう。
そう言いながら、カルセは窓の外を示す。
少年は少し納得したような、けれど納得しきれてはいないかのような表情で"ふうん"と声をあげた。
「先生は、雨嫌い?」
そう問いかけられて、少し考え込んだ。
嫌いか、と問われれば……
「……嫌い、ではないですが」
少し、口ごもる。
……そう、嫌いと言う訳ではない、はずなのだ。
少し、"悲しいこと"を思い出すだけで。
しかしそんなことを患者に話すつもりはない。
ふっと笑って見せて、カルセは言った。
「濡れると風邪を引きやすくなりますからね。
お医者が風邪を引く訳にはいかないでしょう?」
少しお道化たように、カルセは言う。
それを聞いて少年は小さく笑った。
「ふふ、カルセ先生も風邪を引くことがあるの?」
「えぇ、私も一応人間ですからねぇ」
そういって笑う。
少年はそれを聞いてくすくすと笑うと、ベッドサイドに置いてあった小瓶から何かを取り出して、カルセに渡した。
細い指先からそれを受け取って、カルセは首を傾げる。
「おや、これは?」
「キャンディ。カルセ先生のお薬、苦いから飲んだ後は一つだけ食べて良いってママにいわれてるんだ」
そういって、無邪気に笑う少年。
"先生元気ないから"そういって笑う彼を見て、カルセは少し驚いた顔をする。
それから、ふわりと笑みをうかべて、もう一度彼の頭を撫でた。
「ありがとうございます。後程、いただきますね」
「うん、先生元気出してね。……あ、えーと」
おだじいに?
そういって笑う、彼。
"お大事に"と言いたかったのだろう。
いつも、別れ際に眼前の医師がいう言葉。
それを真似たらしい彼は、愛らしい。
カルセはくすくすと笑うと恭しく頭を下げた。
「ありがとうございます」
それでは、お大事に。
そういって、部屋を後にする。
二言三言、彼の母と言葉を交わし、外に出れば、未だ雨は降り続けていた。
彼に渡された小さなキャンディを見て、カルセは目を細める。
「子供の観察眼というのは、侮れませんねえ」
そうひとりごちて、キャンディを口に運んだ。
大分気温も上がってきたこの時期にポケットへ放り込めば、溶けてしまうかもしれない。
優しい少年の心を無下に扱うことは出来なかった。
口に広がる甘い、甘いイチゴの味。
それを感じ取って、ふっと笑みをこぼす。
―― 元気がない、か。
表情を繕うことには慣れていたはずなのだけれど。
そう思いながら、傘を開く。
ぱしゃりと水たまりを一つ踏んで、カルセは空を見た。
止めどなく降り続ける雨。
決して豪雨ではないけれど、止まないだろうなぁと感じさせるそれはやはり、"あの日"を思い出す。
「嗚呼、貴方の所為ですよ」
クレース。
そう名を呼んで、ふっと息を吐く。
表情を作ることに慣れたはずの自分が本心を隠しきれないのも。
幼い子供に心の動揺を言い当てられてしまうのも。
雨を見ているだけで"こんな気分"になっているのも。
そう思いながら、息を吐く。
「気が付いたら、貴方がこの世界に居た時間の倍を生きてしまっているではありませんか」
気が付けば、"彼"と過ごした時間はどんどん遠くなる。
それが酷く、寂しく感じて。
こんな感傷的(センチメンタル)な気分になるのは、自分らしくもないのに。
そんなことを考えていた、その時。
「そこで何をしているんだ」
低い声でそう言われて、カルセはほんの一瞬体を強張らせる。
しかしすぐにその緊張を解いて、ふっと笑った。
「スファルこそ、なにをしているんです?」
「……やっぱりばれるか」
振り返ってみれば、やれやれ、と肩を竦めるかつての相棒の姿。
"あの頃"とは少し違う白い制服を身に付けた彼……スファルは苦笑を漏らして、肩を竦めた。
大きな黒い傘をさした彼の手には、豪胆な彼に不似合いに感じる可愛らしい花束。
白い薔薇の花や、ブルースター、カラー……
可憐で愛らしい花束だ。
それを見て、カルセはふっと笑う。
「おやおや、そんな花束を持ってどちらへ?」
少し揶揄う声音で、カルセは問う。
それを聞いて、スファルは一瞬驚いた顔をして……それから、盛大に溜息を吐き出した。
「……わかってていってるな?」
タチ悪いぞ。
そういって眉を寄せるスファル。
それを見てカルセはくすくすと笑った。
「ふふふ、すみません。貴方を見るとつい、揶揄いたくなるんですよ」
赦してくださいな。
そういって笑うカルセを見て、スファルは溜息を吐く。
そして、肩を竦めながらぼそりと言った。
「……実際、花屋のお嬢さんにも同じこと言われたけどな」
それを聞いて、カルセはおやおやと笑みをこぼす。
確かに、眼前に居る体格の良い彼がちまちまと部屋に花を飾る姿はなかなか想像できない。
そうなれば、誰かへのプレゼント……そう思われても、致し方ないだろう。
そう思いながらカルセは目を細めた。
「まぁ、確かに……墓前に供える花とは思わないでしょうね」
それにしては少し華やかで可愛らしすぎますから。
そういってカルセは指先で可愛らしい青い花を揺らす。
彼が持っている花束は確かにプレゼント用、と思われても仕方がない仕上がりだ。
少なくとも……墓前に供えるために買った、とは思いにくいだろう。
そんなカルセの言葉にスファルは軽く肩を竦め、ウィンクしてみせた。
「だってそう言う風にしたらきっと彼奴、"かわいくない"って拗ねるだろ」
無論、花屋には百合の花やカーネーションなんかもあった。
しかしそうした花はわざと選ばなかったのだという。
"それを受け取る彼"はそうした花を慶ばないだろうと思って、と。
カルセはそれを聞いて表情を綻ばせる。
「そうですねぇ」
確かに、そうだ。
あの子ならば、"もっとかわいい花が良かったなぁ"と言うことだろう。
本気の文句、というよりはちょっとした冗談のように。
そんな可愛らしい我儘が、カルセは……大好きだった。
あぁそうだ、とカルセは声をあげる。
どうした、と首を傾げるスファルに、カルセは言う。
「私、未だ花を買いに行っていないのですよ」
仕事帰りでして、とカルセは医療鞄を揺らす。
それを聞いたスファルは彼の鞄とカルセの顔とを交互に見て、溜息を一つ。
そして、自分が持っていた花をカルセに押しつけ、代わりに彼の鞄を持った。
驚いた顔をするカルセを見て、彼はいう。
「もう一回花屋は却下だ。何か別のモノ買ってってやれば良いだろ」
菓子とか、雑貨とかさ。
そういって溜息を吐くスファル。
「……だからといって何故私に花を?」
「お前が持ってた方が絵になって良いだろ」
俺には似合わん。
そういって溜息を吐くスファル。
その耳は少し、赤くなっている。
……似合わないとわかっていても、こんな可愛らしい花を買って来てくれるような人なのだ、彼は。
そう思いながらカルセは笑みをこぼす。
「照れ屋さんですねぇ」
「揶揄うなって」
「私の鞄を持ってくださるのは嬉しいのですが乱暴に扱わないでくださいね」
「……お前なぁ」
やれやれと溜息を吐くスファルも、相変わらずだ。
口の中に入れていたキャンディはとっくに溶けてしまった。
けれど、口の中には微かに甘い香りが、味が、残っている。
―― キャンディを食べた、という記憶は変わらないのですよね。
そんなことを考えて、そっと笑みをこぼす。
どうした?と不思議そうな顔をするスファルに何でもないと首を振って見せて、カルセは歩き出す。
「では私は瓶詰のキャンディでも買っていきましょうか」
「おいおい溶けるぞ」
でも彼奴は喜ぶかもな。
そんなやり取りをして、雨の中を歩いていく。
ほんの少しだけ、雨の憂鬱さは遠のいた気がした。
―― 君が居た日々 ――
(確かに、貴方が居た日々はどんどんと遠くなる。
私が貴方の元に行く頃にはその記憶も遥か彼方になっていることでしょう)
(それでもこの世界に、私の隣に貴方が居たことは変わらない。
貴方に私が抱いていた想いも、決して変わることはない)